親鸞聖人ってどんな人?

仏教の宗旨のひとつである浄土真宗。門徒の数は1,000万人以上とも言われています。あまり仏教に馴染みのない方でもその名前くらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。その浄土真宗の開祖として知られるのが親鸞聖人です。「他力本願」や「悪人正機」といった独自の教えは、現代を生きる私たちにも導きと発見を与えてくれます。新潟とも縁の深い親鸞聖人とは、一体どんな人だったのでしょうか?様々な角度からひも解いていきましょう。

法然上人との出会い

親鸞は1173年、下級貴族の長男として生まれました。幼くして両親を失った親鸞は、9歳から29歳までの20年間、比叡山で仏教の修行に励みます。しかし、心の中から煩悩が消えることはなく、自力の限界を感じつつも、すべての人が等しく救われる道を求め続けていました。1201年、親鸞はついに比叡山を降りる決意を固め、法然上人のもとを訪ねます。そして法然の教えに帰依し、生涯念仏を人々に伝え続けました。

越後への流罪

念仏による平等の救いは民衆の光となる一方で、古くからの仏教集団や権力者の反感を買います。1207年には朝廷より僧侶の身分を解かれ、親鸞は越後に流罪となりました。赦免は上陸から5年後のことですが、親鸞は関東へ向かうまでの約7年間を越後で過ごしました。

親鸞が越後で初めて足を踏み入れたのが、現在の新潟県上越市です。『親鸞聖人御一代記』によれば、親鸞は親不知の難所をこえて1207年3月28日に居多ヶ浜に上陸します。35歳となっていた親鸞は、家族に囲まれ、民衆に溶け込みながら、出会う人一人ひとりに熱心に教えを伝えたと言われています。

越後での生活

流罪となった越後で親鸞は恵信尼と結婚し、自らを「愚禿釈親鸞」と名乗りました。愚(ぐ)は「おろか」、禿(とく、かむろ)は僧侶のように剃った頭でもなく俗人のように伸ばした髪でもないという意味で、「僧に非ず、俗に非ず」という親鸞の立場を表しています。越後の荒海や、信濃川、阿賀野川などの河川の氾濫、大自然に翻弄されながらもたくましく生活する越後の人々に、親鸞は何を感じたのでしょうか。

恵信尼との結婚、そして越後での生活は、親鸞の思想に深く影響しているとされています。また、親鸞の足跡を求めてこの上越を訪ね歩くと、親鸞の教えに触れ、念仏の教えに帰依してきた多くの人々の歴史に感銘をうけずにはおられません。

御旧跡・七不思議

越後の地では、生活に身近な植物や食物にも、親鸞への謝念が結びついた形で伝承・伝説が数多く伝えられています。特に「越後親鸞七不思議」と呼ばれる旧跡には、親鸞を偲ぶ人々が今も絶えず訪れています。

七不思議に関しては、特に江戸時代になって二十四輩巡拝や本願寺詣りが行われた時期から盛んに巡拝されるようになったようです。念仏の道を相続していくことの大切さを、直接御旧跡を辿り、また守っておられる方々からお話をお聞きすることで、生き生きと感じとることができるでしょう。