真宗大谷派 新潟教区

新潟と浄土真宗

親鸞聖人が越後に流罪になったことをきっかけに、浄土真宗と新潟には深いつながりができ、県内各地で様々な逸話が語り継がれています。現代まで続く新潟と浄土真宗の関係についてご紹介します。

越後に流罪となった親鸞聖人

承元元年(1207年)、念仏宗の影響に脅威を感じた朝廷による弾圧「承元の法難」により、親鸞聖人は越後国国府(現在の上越市)に流罪となります。京都から北陸までは陸路、富山からは海路を通り、居多ヶ浜に上陸。35歳の親鸞聖人はそれから約7年間、越後の人々とともに厳しい自然環境のもとで生活しながら、すべての人が等しく救われる道として、念仏の教えを伝えました。

県内の4割が浄土真宗の寺院

「越後親鸞七不思議」と呼ばれる旧跡をはじめ、親鸞にまつわる伝承や伝説が数多く残っている新潟。特に室町時代に入り、本願寺第8世である蓮如上人によって布教が盛んになると、新潟でも浄土真宗の寺院が増えていきます。現在でも新潟県内の寺院の約4割を浄土真宗が占めています。

新潟県が輩出した主な僧侶

香樹院 釋徳龍

(1772〜1858)

江戸時代の教学者(学匠)。水原(現・阿賀野市)無為信寺に生まれる。8歳で漢詩を作り、10歳で父に従って江戸に出た際は儒学者から神童と称せられたという。江戸期の浄土真宗の教学の大成者、香月院深励師に学び、浄土真宗のみならず、仏教全般、古代インド語、歴史にも精通し、真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられた。徳行(道義にかなったよい行い)のほまれ高く、大谷派の歴代講師の中で、「学識は香月院(深励師)、徳行は香樹院(徳龍師)」と称されたという。

香涼院 釋行忠/武田行忠

(1817〜1890)

香樹院釋徳龍師の甥。11歳で『百法問答抄』という仏典を分析講義して、当時の人を驚嘆させたという。京都で徳龍師の門下に入る。生涯、独身を通し、困窮者には財物を与え、詩歌書画もたしなんだ。このため、著書に「真宗要目五十題講述」などの仏教書以外に「御文管弦秘曲」がある。真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられる。無為信寺からは2代続けて大谷派講師を輩出している。

井上円了

(1858〜1919)

越路町(現・長岡市)の慈光寺に生まれる。行忠師に学び、その後、東本願寺の国内留学生として東京帝国大学で学ぶ。1887年(明治20年)、後に東洋大学となる哲学館を創設する。哲学館初代館主、哲学館大学初代学長を歴任。明治の仏教哲学形成や仏教革新運動に大きな影響を及ぼした。

曽我量深

(1875〜1971)

西蒲原郡味方村(現・新潟市南区)円徳寺に生まれる。小学生の時に浄恩寺(見附市)の養子となる。真宗大学(現 大谷大学)の初代学長・清沢満之氏の思想を批判する論文を発表するが、批判した清沢氏から真宗大学の教授に任命される。真宗大学の京都移転に反対し教授を辞任し、後に東洋大学教授となり、1925年(大正14年)、再び大谷大学(旧真宗大学)教授となる。1930年(昭和5年)、著書の内容が教えに反するとして事実上追放される形で教授を辞任。金子大栄氏と共に私塾「興法学園」を開設するなど、学生への指導続け、1941年(昭和16年)、真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられ、大谷大学教授に復帰する。金子大栄氏と共に近代教学の礎を築いた。

金子大栄

(1881〜1976)

上越市の最賢寺に生まれる。1915年(大正4年)、35歳で出版した「真宗の教義及びその歴史」が大きな反響をよび、翌年、若くして大谷大学教授に迎えられるが、大正14年に出版した書籍が物議をかもし、教授を辞任、僧籍剥奪となる。これは当時、近代的な思考方法による革新的な考えを受け入れることができない保守的な学派からの反発があったためである。この後、金子氏は曽我氏と共に私塾「興法学園」を開設するなど、学生への指導続け、1940年(昭和15年)僧籍復帰、2年後に大谷大学教授復帰。さらに2年後、真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられる。曽我量深氏と共に近代教学の礎を築いた。

松野純孝

(1919〜2014)

上越市の一念寺に生まれる。東京大学文学部印度哲学梵文学科卒業。文学博士。文化庁宗務課専門員、上越教育大学長などを歴任。著書に『親鸞 その生涯と思想の展開過程』、『ゐなかの人々と親鸞』などがある。

新潟県が輩出した主な宮大工

高木甚兵衛

江戸後期の関原(現・長岡市)の宮大工。越後だけでなく関東などでも棟梁として多くの寺院や神社を建立している。現在でも手がけた本堂が現存し、文化財指定されている建物も多い。また、東本願寺の安政時の再建の際には越後から副棟梁として、招かれたとも言われている。関原には高木甚兵衛だけでなく高木姓を名乗る宮大工集団が存在し、活躍していた。

長谷川熊平

(1872〜1921)

鳥越村(現・新潟県長岡市鳥越)に生まれ、家業は代々宮大工。二十歳にして棟梁の資格を備え、その後に南蒲原郡月岡村(現・三条市月岡)の浄照寺本堂建立中に、名古屋の伊藤平左衛門(当時帝室技芸員)の門下生となる。東京の築地本願寺別院が建立された際には指揮監督を務めた。その後帰郷し、三条別院や善行寺、光福寺などを建立。現存の彌彦神社の大工棟梁としても活躍した。