真宗大谷派 新潟教区

親鸞聖人越後御旧跡案内

親鸞は朝廷より念仏の弾圧をうけ、越後に流罪の身となりました。親鸞の足跡を求めて越後を訪ね歩くと、親鸞の教えに触れ、念仏の教えに帰依してきた多くの人々の歴史に感銘をうけずにはおられません。また生活に身近な植物や食物にも、親鸞への謝念が結びついた形で伝承・伝説が数多く伝えられています。特に「越後親鸞七不思議」と呼ばれる旧跡には、親鸞を偲ぶ人々が今も絶えず訪れています。

越後親鸞七不思議

鳥屋野の逆竹

とやののさかさだけ

枝が下向きに生える枝垂れタケ。親鸞が竹杖を逆さに土に挿したところ、枯れた竹は青々と繁茂して一大竹林となったが、不思議なことにその枝は逆さに伸びていたという。

山田の焼鮒

やまだのやきふな

体に黒い焦げ目模様のついているフナ。親鸞が南無阿弥陀仏と言いながら、池に放したところ、その鮒は生き返ったという言い伝えが残っている。

焼鮒円盤

やきふなえんばん

池を泳ぐ鮒には久しく串の焼き跡があったと語り継がれており、やがてその袈裟かけの榎の年輪に鮒形が現れるようになった。

保田の三度栗

やすだのさんどぐり

親鸞が植えた焼き栗は芽を出すと、年に六月と八月、十月の三度花を咲かせ、その葉の先は二つに分かれて茂ったということです。一年に三度花が咲き、実がなるというクリ。

小島の八房梅と珠数掛桜

こじまのやつふさうめとじゅずかけざくら

親鸞が詠吟して植えたところ、不思議にも枝葉四方に茂り花八重にして色紅になり、一輪に八つの実を結ぶ八ッ房の梅となった。

川越波切の御名号

かわごえなみきりのごみょうごう

親鸞が平島村(現在の新潟市西区)に迎えられた時のこと。念仏の教えを説いた後、新十郎という人物が鳥屋野草庵に帰る親鸞を送ろうと信濃川に船で漕ぎ出したところ、北風が激しく吹き、川を渡れなくなってしまった。すると親鸞は懐中から紙を出し、「南無阿弥陀仏」の六字の名号を書き、新十郎に与えた。船の表に掲げると、不思議なことに難なく波を切り分けて渡ることができたという。以来、名号は子孫代々大切に守られている。

田上の繋ぎ榧

たがみのつなぎがや

数珠繋ぎにされていた榧(かや)の実を庭に植えると、不思議にも芽がでて枝葉が途中で反転し、繋ぐ穴のあいた実がなったという。

国府の片葉の葦

こくふのかたはのあし

親鸞の教えに感化されて、葦の葉が片方だけを向いてなびいたといわれている。

親鸞聖人上陸の地

居多ヶ浜

こたがはま

越後に流罪になった親鸞が木浦(現在の糸魚川市木浦)から舟に乗り、上陸した浜として伝えられている。

居多ヶ浜記念堂

こたがはまきねんどう

親鸞上陸の地を記念して昭和42(1967)年に建立された記念堂。親鸞の木像を安置する八角堂や石碑がある。

居多神社

こたじんじゃ

親鸞は上陸の後、居多神社を参拝し、六字名号に「末遠く法をまもらせ居多の神、弥陀と衆生のあらむ限りは」と一首添え供えたという。その親鸞の教えに感化されて、葉が片方だけを向いてなびいたといわれている。

五智国分寺 竹之内の草庵

ごちこくぶんじ たけのうちのそうあん

親鸞が1年ほど生活する間に使っていた養爺清水が今も湧き出る。また、草庵を去る際、鏡ケ池に自らの姿を映し刻んだと伝わる親鸞座像がある。

本願寺国府別院 竹ヶ花草庵跡

ほんがんじこくふべついん  たけがはなそうあんあと

竹之内の草庵の後に親鸞が移り住んだ草庵で、妻の恵信尼とともに越後の人々と生き、念仏の教えを深めた。現在は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の別院である。

上野山 国府 光源寺

うえのざん こくふ こうげんじ

親鸞が流罪赦免の際に自ら写されたとされる「御満悦の御真影」がある。左手が上にあがっているため「左上御影」ともいわれ、全国でも数点しか見られないものである。

歓喜踊躍山 浄興寺

かんぎゆやくざん じょうこうじ

親鸞が『教行信証』を書きあらわした際に、完成の歓びを寺号にあらわし「歓喜踊躍躍山浄土真宗興行寺」略して浄興寺と名付けたという稲田(茨城県笠間市)浄興寺に由緒を持つ。浄土真宗浄興寺派本山。本堂は国指定重要文化財である。

高田別院

たかだべついん

1730年に幕府の新寺建立停止政策の中、8年間に及ぶ門徒たちの嘆願によって始まった真宗大谷派の別院。地域の250あまりの寺によって今も大切に守られている。

延命山 本覚坊

えんみょうざん ほんがくぼう

浄土真宗に帰依した大和守宗道が、越前(福井県)和田に興したことに始まる大谷派寺院。戦乱をさけ天正4 (1576)年、現在の下野田に落ち着き、以降、火災にあっていないことから貴重な真宗関係資料が多く所蔵される。

新井別院

あらいべついん

1684年に置かれた新井掛所に始まる真宗大谷派の別院。3度の風水害と3度の火災にあいながらも、そのたびに地域の寺院と門徒により再建がなされている。樹齢700余年の老杉で彫られた恵信尼の像を安置する恵信尼公堂がある。

恵信尼公廟所

えしんにこうびょうしょ

親鸞の妻、恵信尼の墓所。恵信尼は晩年、この地で生活していた。現在は本願寺国府別院の飛地境内地(別邸)となっており、毎年6月に恵信尼公法要が行われる。また隣接した「ゑしんの里記念館」では「恵信尼文書」や「恵信尼伝絵」など、ゆかりある資料が展示され、恵信尼の生涯について知ることができる。レストランや特産品販売コーナーも併設されている。

三葉勧学精舎 正念寺

さんようかんがくしょうじゃ しょうねんじ

江戸時代に真宗学の学寮を設けていた由緒ある寺院。現在は本願寺派(西本願寺)に属する。三葉勧学とは、江戸後期の住職であった興隆・僧朗・慧麟の親子三代が勧学(当時の教学の最高の階位)となっていたことをあらわすものである。

関山神社・関山仏足石・関山石仏群

せきやまじんじゃ・せきやまぶっそくせき・せきやませきぶつぐん

妙高山は別名「須弥山(しゅみせん)」といわれ、古来より信仰のあつい山であり、関山神社の御神体は、昭和36(1961)年に新羅仏と確認された。関山仏足石は、神社の境内近くに祀られた石で、釈迦の足裏を刻んでいる。関山石仏群は、妙高堂近くに25体ほどの石でできた仏がかたまって置かれている。石仏が地中から現れ出でた感じがし、風雪で削られた仏の表情は愛らしささえ感じる。

赤倉温泉 赤倉ホテル

あかくらおんせん あかくらほてる

親鸞が発見したという言い伝えも残る赤倉温泉。赤倉ホテルでは毎年11月、念仏の教えを聞く人々が宿泊に訪れ、法話を聞くお講「有縁講(うえんこう)」が開かれている。ホテルのロビーには大きなお内仏(仏壇)が安置されている。

山寺薬師

やまでらやくし

浄土真宗に帰依した大和守宗道が、越前(福井県)和田に興したことに始まる大谷派寺院。戦乱をさけ天正4 (1576)年、現在の下野田に落ち着き、以降、火災にあっていないことから貴重な真宗関係資料が多く所蔵される。

小黒 專敬寺

こぐろ せんきょうじ

親鸞の子・小黒女房ゆかりの地に建つ真宗大谷派の寺院。貞観2(860)年、真雅僧正(しんがそうじょう)が真言宗の寺として創立したと伝えられ、当時の住職が親鸞の弟子となり浄土真宗に改宗した。本堂は総ケヤキ造りで長さ18間(約32m)の新潟県内最大級の大きさである。

尾神嶽

おかみだけ/おがみだけ

明治期の東本願寺・御影堂と阿弥陀堂の両堂の再建では、門徒や地域の住民の手によって全国各地の山林から大きな樹木が用材と切り出された。巨木を運搬する際、事故が発生することもあったが最も大きな事故が起こった地がこの尾神嶽であり、大雪崩で27名が亡くなる大惨事となった。犠牲者の中には2歳から4歳の幼児も含まれており、家族総出で運搬に携わっていたことがわかる。事故が起こった場所には「尾神嶽殉難の碑」が建てられている。

親不知

おやしらず

承元元年(1207年)2月、越後国の国府に流された聖人一行は、北陸道を下り越中国(現在の富山県)と越後国の国境を経て、糸魚川市市振を通り、北陸最大の難所といわれる「親不知」を越えられ、現在の糸魚川市木浦から舟に乗って国府の居多ヶ浜に向かわれたと伝えられている。

無爲信寺

むいしんじ

親鸞聖人の高弟24人(二十四輩)の一人、「無為信坊」が文永年間(1264–75)に会津にて創建したと伝えられ、寛政12年(1800)に現在の地に越後国蒲原郡下条村「宗栄」(和泉屋 佐藤伊左ェ門)の尽力により再興された。本堂には、「無為信坊」が聖人から形見としていただいたと伝えられる珍しい等身の「半身親鸞聖人御影」が安置されている。

常敬寺

じょうきょうじ

親鸞聖人の孫にあたる唯善が開基。元下総国(現在の茨城県)関宿中戸村に中戸西光院として建立されたが、蓮如上人の時に常敬寺と改めた。寛文6年(1666)上越市に移った。このお寺の山門は珍しく朱塗りになっており「赤門さん」と呼ばれている。本堂には、聖人直作と伝えられる「簾阿弥陀如来」が安置されている。

西照寺

さいしょうじ

親鸞聖人の高弟24人(二十四輩)の一人、「西念坊」開基とする「長命寺」(長野県)の分寺である。初め西照寺は信濃国松代(現在の長野市)にあったが、慶長年(1602)に越後に移った。このお寺には国の重要文化財に指定されている「親鸞聖人像」が安置されている。