第1組徳正寺 繁原 立

私は、新潟教区慶讃法要にあたって開催された特別事業「本山出向教学研鑽奉仕団」に参加させていただきました。教区推薦4名、一般応募6名、引率1名の11名で、講師に教学研究所の名和達宣氏をお迎えして、1月26日から28日までの二泊三日、本山で学ばせていただきました。名和先生は、「宗祖親鸞聖人御誕生」「立教開宗」「南無阿弥陀仏」三つのテーマで講義をされました。
講義にあたって、まず今回の教学研鑽奉仕団の「教学研鑽とは何か」というテーマでお話を聞きました。お話の中で鶴見俊輔さんとヘレンケラーさんが出あわれたエピソードを紹介されました。ヘレンケラーさんは、「大学でlearn(学ぶ)をした。そのことは非常に大事だが、unlearnすることがもっと大事だ」と言われたそうです。
これを聞いた鶴見さんはunlearnとは「学んだことを忘れる」とか「学ばない」ことかと考えて不審に思ったそうですが、「学びほどく」というかたちに受け取りました。
そのことを、靴紐に譬えています。学ぶことは靴紐を固くすることです。ちゃんと靴を履いて歩くために固く縛ることは大事ですが、それだと生活の中で窮屈になってしまいます。靴紐が段々歩いていくと解けていき緩んで、歩いていくたびに靴が足に馴染んでいくようになります。これが「学びほどく」ということだと、鶴見さんは受け止めたのです。
生活を送っていると、また緩んでくるからまたこれを固く結び直すというように、learnとunlearnを繰り返されていきます。今回の奉仕団における「教学研鑽」とは、この三日間で、今まで生活の中で歩んできた足元を確かめて結び直すことです。
しかし、それで終わりではなく、また生活の現場に戻っていくことで、学びが結びほどかれてきて、それを結び直していく歩みが大切だと、名和先生は言われました。この話を聞いて、私にとって、学びを通して聞き続けていく、そしてまた考えるという歩みが、「聞思」ということばと重なりました。
同時に、私たちが学んでいくなかで大切にしなければならないことは、「得道の人」との出あいだとも教えていただきました。「聞思」すること、聞いて終わりではなく、思うこと、考えることは大切です。研鑽して問いが生まれ、また聞いていく中で道があきらかになります。しかし、同時に、私において真実の道があきらかになっても、その道を先に歩まれた方を明確にしなければ、親鸞聖人が、『教行信証』信巻において、
唯、道有りと信じて、都て得道の人有りと信ぜざらん。是れを名づけて「信不具足」とす [聖典p.261]
と指摘されたように、ひとりよがりの真実になってしまいます。
私たち真宗門徒にとって、「得道の人」とは宗祖親鸞聖人です。名和先生は、このことをテキスト『宗祖親鸞聖人』を引用して、確認されました。「得道の人」とは、本願念仏の教えが真実であることを実証している人です。そのもっとも具体的な名が、宗祖親鸞聖人なのです。
親鸞聖人は生涯をかけて「宗」を求められました。「宗」とは生活の「要」となる部分です。生活の「要」とは、親鸞聖人にも私にも共通する「人間である根拠」のことです。ゆえに、「宗祖親鸞聖人」を学ぶということは、そのまま、私の生き方、在り方が問われ、学ばれてくるということです。
「宗祖」とは、決して親鸞聖人を権威付け、限定する言葉ではありません。先んじて同じ道を歩む「得道の人」として、親鸞聖人に向かうことで、私たち一人一人の姿勢が問われるのです。親鸞聖人は生涯をかけ、「宗」を求め、「宗」を見出し、「宗」を表現してくれています。私自身が、親鸞聖人と「宗」を同じくしているかが問われるのです。親鸞聖人を宗祖と呼べるかは、私たち真宗門徒の課題なのです。
私自身は、今回の立教開宗慶讃法要に、儀式をおつとめする役で参加させていただきます。金子大栄先生は『住職道』の中で、「住職道とは…第一に仏祖崇敬である。住職とは仏祖に奉仕するものである。したがって儀式に明らかなものでなくてはならぬ。」といわれています。崇敬の実際は荘厳と勤式です。亡くなられた先代の近松先生も、「儀式と教学は車の車輪のように常にお互いが回らなければ真っ直ぐに進むことは出来ない」といわれていました。しかし、私たちは自分の都合の良いかたちで物事を捉えたり、見返りを得たいと思う心や、手ごたえを求める心がどうしても働きます。つまり、名利によって真実が隠されて、真実でないものを真実にしてしまうのです。これによってお互いに尋ねなおす手立てを失ってしまいます。荘厳と勤式を通して、「かたち」となって私たちの前に現れてくださった「宗」にも、価値観など勝手に押しつけてしまうのです。お念仏一つにしても、高低、一念多念の問題が生まれてくるのです。立教開宗慶讃法要において、私たちに願われていることは、常に名利に惑わされて、しっかりと教えをいただけていない自分自身を見つめ直すことではないかと思います。
親鸞聖人は、「得道の人」として法然上人と出あい、念仏者となられました。私たちも「得道の人」として親鸞聖人に出あえているでしょうか。立教開宗とは、親鸞聖人が過去に真実の仏教を「(真)宗」というかたちで、あきらかにしたことだけでは成立しません。「得道の人」と出あいによって、今現在を生きる私たち一人ひとりが教えに立ち、一人ひとりに「宗」が開かれることが願われているのです。「宗」が開かれることは、親鸞聖人と「人間であることの根拠」を同じくするということでもあります。そのとき、はじめて「宗祖」として親鸞聖人に出あえるのではないでしょうか。
歴史的にみて、親鸞聖人における立教開宗はどの年を基点とするのかについても講義がありました。1224年(元仁元年)『教行信証』の草稿本完成説によって宗祖52歳の年を基点とする説や、法然に弟子入りをした1201年(建仁元年)「雑行を棄てて本願に帰す」と宣言していることから、宗祖29歳の年を基点する説をあげられました。
いずれの説も、相応の根拠があることを教えて頂きましたが、そのなかで、名和先生は、親鸞聖人が後にこの年を末法に入って「六百八十三歳(年)」と『教行信証』に記したことに着目されました。なぜなら、親鸞聖人が末法の深まりを確認した年だからです。その年は、延暦寺から念仏停止の奏状ならびに法然上人十三回忌も重なっていました。
確かに、宗祖29歳の年を基点とする説のように、法然上人との出あいがなければ、親鸞聖人の目覚めはなかったでしょう。しかし、親鸞聖人をして、法然上人があきらかにされた浄土の教えこそが仏教だといわしめた背景には、親鸞聖人の生きた時代が末法だという自覚があったことに他なりません。末法は法滅まで一万年続くとされる中で、親鸞在世のときで末法に入って683年、立教開宗800年だとされる2023年が末法に入って1,483年だとすれば、まだあと8,500年余りは末法の時代ということになります。名和先生の問題提起は、現代を生きる私たちが、末法の自覚なしに、親鸞聖人があきらかにした「真宗があるから大丈夫だ」と安易に考えるような「念仏者としての姿勢」を問うものではないかと思います。
だからこそ、「聞思し続けていくこと」が私たち真宗門徒にとって大切だと思います。聞いて、理解しても、満足することはありえません。一つ満足してもまた不安や不満が出てくるのが私たち人間です。そんな人間の本質を、親鸞聖人は、「凡夫」とおさえられています。「念仏者としての姿勢」を問う「凡夫」であるためにこそ、学びを止めてはなりません。そして、その学びは一人ではできません。法話などを通して御門徒の方々に伝え、共に共有し、共に問いを持ち、共に訪ね続けねばなりません。儀式においても、装束を身に纏うときも威儀を正すといったことなどからも、常に私たちは「念仏者としての姿勢」が問われていると思います。お勤めにおいても、「声明を聞くものも、声明をするものも共に心身豊かになるお勤めをしなければならない」と教えていただきました。自分勝手ではいけないということでしょう。本当にそれでいいのかと常に問い続けていかねばならないと思います。
名和先生からは、「悲嘆なくして慶讃はあり得ない」ということばもいただきました。親鸞聖人のように、私自身と私自身が生きる時代社会の悲嘆とともに、私たちは教えを学んでいかなければなりません。
末法という時代にあって、阿弥陀の大悲を身に受けたからこそ、「悲しきかな、愚禿鸞」という悲嘆が親鸞聖人の中で起こったのでしょう。人間は自分の力ではどうしようもない弱い存在です。名和先生は、浄土真宗は「人間は本質的に弱い」ということを教えてくれる仏教だと言われました。私たちは他力によってでしか救われません。しかし、それは、私たちが、親鸞聖人があきらかにしてくださった浄土真宗という他力の仏法を聞くことができるから、他の生き物よりも救われるということではありません。むしろ、生きているだけで他の生き物よりも罪が深いから、仏法を聞かなければならないのです。私たちが生きる現代社会も、親鸞聖人在世の時代と同じく末法なのです。
浄土真宗の歴史とは、弱き者に本願が応じてきた歴史です。親鸞聖人は「悪人」とも表現をされますが、私たちは罪悪深重の「凡夫」なのです。末法とは、そんな人間の弱さを如実にあきらかにする時代です。親鸞聖人は、末法という時代を「今、生きているという自覚」によって悲嘆されています。
今回の慶讃法要を一つのお祭りごととして騒ぐだけで終わらせるような法要の勤め方にならないか、しっかりと考えていかねばならないと私は考えます。大谷派僧侶として、「得道の人」として親鸞聖人を「宗祖」と仰ぎ、私自身も「今、生きているという自覚」において現代社会を末法として悲嘆することができているか、今回の慶讃法要を通じて「念仏者としての姿勢」を、自分の中でしっかりと考えたいです。
このたびの教区慶讃法要にてご法話いただく法話者は、「本山出向教学研鑽奉仕団」に参加された以下の3名の方に決定しました。
金子 詩織 氏(第6組最賢寺)
推耳 妙子 氏(中越13組廣永寺)
新田 顕光 氏(第17組光照寺)
