真宗大谷派 新潟教区
ブログ

【あの人に会いに行く】高浜虚子からの宿題と俳句の醍醐味(安原晃さん第3回)

高浜虚子からの宿題と俳句の醍醐味

真宗大谷派 安淨寺 安原 晃

インタビュー:横田 孝優

安原住職のもうひとつの顔が「俳人」。新潟の自然や社会、時代の出来事などを題材に70年近く俳句を詠み続け、これまで3冊の句集を出版しています。若い頃に指導を受けた高浜虚子の影響を今も強く感じると語る安原さん。今回は、俳句と歩んできた半生についてのお話です。

安原 晃(やすはら こう)
1932年生まれ。安淨寺住職。大谷大学文学部卒業後、仏門へ。真宗大谷派宗議会議長、宗務総長、宗務顧問などを歴任。また民生児童委員や保護司を40年以上務め、1993年には藍綬褒章を受賞。「安原 葉(よう)」の俳号で、俳人としても活動。ホトトギス同人会長。俳誌『松の花』主宰。

俳句、そして高浜虚子との出会い

―安原さんが俳句を始めたきっかけは何ですか?

俳句は父がやっていました。長野県飯山市の西敬寺の出身で、婿に来た人。休日には白い服を着てテニスをして、イギリス製のサドルが高い自転車に乗っていました。上越ではかなり目立っていたようです。周囲からは「ハイカラさん」と呼ばれていました。

そんな父が、彫刻家の滝川美堂と一緒に五智吟社(ごちぎんしゃ)という俳句の会を始めました。現在でも続いており、2022年で100年目を迎えています。縁あって、終戦の翌年の1946年に実家の光源寺で「ホトトギス600号記念俳句大会」が催され、長野県小諸に疎開していた高浜虚子が来られました。当時の私は中学2年生。

―そこで高浜虚子との出会いがあったんですね。

ホトトギスは1897年に愛媛県松山市で正岡子規主宰・柳原極堂の名で発行された俳句雑誌です。翌年に発行社を東京に移して、高浜虚子が受け継ぎました。現在は1500号を超え、日本の月刊俳句雑誌の中でも最も長い歴史を持ちます。

その大会で虚子が詠んだのが「野菊にも 配流のあとと 偲ばるゝ」。野菊を眺めながら、流罪で越後にやってきた親鸞のことを偲んだ句でした。

虚子が詠んだ句がもうひとつあります。

「畳替 せねど掃除の よくとどき」 ※俳句では「畳替」で(たたみがえ)と読む。

当時は東京から疎開してきていた約40人の児童が寺で寝泊りしていました。そのために畳が傷んでいたんですね。終戦直後で物がないので交換することもできず、そのままで虚子を迎えることになったのですが、その様子を見て虚子はこの句を詠んだのです。虚子の人柄が良く表れているのではないでしょうか。

次兄に教えられて、初めて「ホトトギス」と星野立子主宰の「玉藻」に俳句を投句したのが1952年のこと。その翌年に2泊3日の虚子の若手研修会「稽古会」に出席する機会がありました。会場は千葉県の木更津の近くのお寺でした。当時は大谷大学の学生。ホトトギスは投句をすると所在地の代わりに大学名が掲載されていました。東京大学は東大、京都大学は京大。大谷大学の私は「谷大」と紹介されました。後にも先にも谷大が出たのは私一人だけ。異例のことでした(笑)。そのことがきっかけで東大や京大の学生と一緒に、研修会「稽古会」に参加することになったのです。

俳号に込めた想い

―「安原 葉(よう)」という俳号は何に由来するのでしょうか?

私の俳号は、1941年7月8日に中国で戦病死した私の長兄に由来します。大谷大学の卒業と同時に、陸軍に幹部候補生として入隊。すぐに中国に渡って、病気にかかって亡くなったと聞いているんですが、あの頃は病死なのか戦死なのかは分からない。その兄の名前が「恵葉(えしょう)」。兄を偲ぶ意味で一文字もらって、俳号にしました。

弟にとっては、怖い兄でした。6歳の時に「お前を泳げるようにしてやる」と近くの海に連れて行かれ、沖でいきなり放り投げられたんです。水の中で口から気泡が出ていくのを見ながら、「これで俺は死んだ」と思いました。溺れさせて覚えさせる、というやり方だったんですね。

気がついたら助けられて浜にいました。当時の兄は20歳くらい。あの頃はどこの兄も弟を厳しく鍛えたんですよ(笑)。最後は兵隊にすることを目標にした、軍国主義時代のスパルタ教育ですね。

―俳句と仏教には共通点があるのでしょうか?

学生の私が参加した研修会で、虚子は「明易や 花鳥諷詠 南無阿弥陀(あけやすや かちょうふうえい なむあみだ)」という句を詠みました。

「明易」とは、早く明ける短い夏の夜のこと。すなわち、目覚め易いこと。自覚です。「花鳥諷詠」とは、人間を含めた天地・自然・社会を詠むこと。その後に「南無阿弥陀」と続いたことに、私はカルチャーショックを受けました。ですが、当時はまだ若造ですから、そのことにも気づいていなかった。「虚子にしか詠めない句だな」くらいに思っていました。しかし今では、私が俳句を学ぶ上での大きな柱となっている句ですね。

私は虚子を崇拝しているんです。虚子の説く「花鳥諷詠」は、虚子の信仰であるという句ですが、信仰とは何かというと、それを信じ切ること。信じ切るとはどういうことか。信仰は主にキリスト教で使われる言葉。仏教だと「信知」になります。ただそれを信じるというだけでなく、やがて生活にまで表れてくることを意味します。

つまり「明易や 花鳥諷詠 南無阿弥陀」という句は、虚子が、俳句すなわち「花鳥諷詠詩」を実践することが生きる依りどころとなることに目覚め、人々にもそれを勧めていくことを宣言した句であります。言い換えれば、俳句は「如来廻向(にょらいえこう)の表現」であるという意味ではないでしょうか。

俳句は「如来廻向の表現」。つまり、如来からここを詠めと言われたことを詠むのです。自己主張ではない。それこそが、虚子が俳句でたどり着いた境地ではないかと思うのです。

あらためて、すごい句だなあと思います。偶然ですけどこの句に出会えたことは「お宝さん」だと思います。私が俳句を作り始めて、68年くらい。死ぬまで続けたいと思いますが、この句が教えてくれたことは虚子からの宿題だと思っています。

また別の機会に、虚子はこの句に関して質問を受けています。「花鳥諷詠と南無阿弥陀仏はイコールですか?」と聞かれて、虚子は「そうです」と答えています。それからすぐに質問者に聞き返すんです。「あなた方もそう考えておられますか?」。質問した人も、「私もそう考えています」と答えるのですが、虚子は「怪しいな」と言いました(笑)。

これが信仰なのです。つまり、頭で信じるのではなく、生かされていること自体を五・七・五で表すのが、俳句なのです。

詠もうとして詠んだのは俳句じゃないんです。言わずにはいられないもの、表現せずにはいられないものなのです。そんなことで俳句を生涯の課題として詠んでいます。

(終わり)