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【あの人に会いに行く】寺に入ることも宗務総長になることも考えていなかった(安原晃さん第1回)

寺に入ることも宗務総長になることも考えていなかった

真宗大谷派 安淨寺 安原 晃

インタビュー:横田 孝優

およそ460のお寺が所属する三条教区。その中には、一風変わった経歴や経験を持っている僧侶や門徒も少なくありません。今回インタビューしたのは、長岡市にある安淨寺の安原晃住職。戦後の混乱の中で僧侶となった経緯や、宗務総長時代のエピソード、もうひとつの顔である俳人としての活動などについて、3回に渡ってお話をうかがいます。

安原 晃(やすはら こう)
1932年生まれ。安淨寺住職。大谷大学文学部卒業後、仏門へ。真宗大谷派宗議会議長、宗務総長、宗務顧問などを歴任。また民生児童委員や保護司を40年以上務め、1993年には藍綬褒章を受賞。「安原 葉(よう)」の俳号で、俳人としても活動。ホトトギス同人会長。俳誌『松の花』主宰。

海の近くで育った子ども時代

―どんな幼少期を過ごされたのでしょうか?

高田教区の「光源寺」で六人兄弟の四男として誕生。小学生になってからは、近所の国府小学校に通っていました。海辺にあって、今も残っています。1クラス30人くらい。楽しかったですよ。よく蜃気楼が出るんですよ。すると授業を中断して、先生も一緒に砂浜まで見に行くんです。海水浴もしました。

国府は親鸞が流罪でたどり着いた土地なので、ゆかりある場所が多いんですよ。全国から団体の参拝客がよく来られていました。

小学生の途中で小学校が国民学校に変わりました。その後に大東亜戦争が始まり、1945年4月に新潟県立高田中学校に入学。すぐに陸軍幼年学校の試験を受けさせられました。内容は忘れたけどほとんどの生徒が合格。もう戦況も厳しくて兵士が足りない。国は少年兵も欲しいわけです。私は軍人になれるのが嬉しくてね。そうしたら8月に終戦を迎えました。

親族の紹介で、僧侶の道へ

―戦争が終わり、どんな変化がありましたか?

10月頃にはアメリカ軍の進駐が始まりました。今まで使っていた教科書は回収されて、新しい教科書が配られました。教科書と言っても、新聞を折ってハサミを入れて本の形にしただけのにわか作りのもの。教える先生も自信喪失していましたね。

当時一番美味しいと思っていたのが、サツマイモのツル。油で炒めて食べていました。今じゃとても食べられない。満足な食べ物がない時代でした。

2年生のときに学制改革があって、新制に切り替わったんです。その結果、3年生で一旦卒業するんですよ。旧制中学は4年制なんです。学校の名前が「新潟県立高田高校併設中学校」になり、私たちは高校1年生になりました。でも、先生も友達も校舎もそのまま。余談ですが、雅子皇后の父である小和田(恆)さんが同級生でした。

卒業後は新潟大学に進学。高田分校の英語科でした。その時に安淨寺に入ることが決まりました。住職候補が1936年に亡くなり、おじいさんがしばらく住職をしていましたが1947年に他界。古海香雲氏(母の兄、軍人出身で大谷大学の漢文教授)の紹介でした。

もともと軍人になると思っていたので、お寺に入るなんてことは考えていなかった。それでも大谷大学で資格を取らないと住職になれないので、新潟大学を1年で中退して編入することになりました。大谷大学では修得単位の都合で、1回生と2回生の両方の授業を受けなきゃいけなくて、大変でしたね。3回生、4回生では舟橋一哉教授の原始仏教を学び、卒業論文審査では、舟橋先生と学長の山口益先生の審査を受けて、何が良かったのかわかりませんがトップの成績で卒業しました。

地域から頼られる存在に

―卒業後はすぐにお寺に入られたんですか?

1955年の7月25日に住職にさせられましてね。母が民生委員をやっていたので、翌年にそれも半ば無理矢理に引き継がされました。当時は24歳。全国の民生委員で3番目に若かった。もちろん、県内では一番若い。血気盛んな頃でしたので、町会議員の一人に「若造が」と言われてカーッとなっちゃった。今もらったばかりの厚生大臣からの委嘱状を破ろうとしたら、町長に止められました。

そのご縁で結局、民生委員を41年もやりました。保護司や人権擁護委員、行政相談員などもやってきました。少年補導員になって警察官から教えてもらったのが、後ろから首筋を見て年齢を当てる方法。パチンコ店に行って、未成年を見つけて補導するわけですね。

色々と賞もいただきました。おもしろい出来事がありまして、1993年に藍綬褒章をもらうことになり、当時の厚生省に行ったんです。そこで「知事表彰は?」と聞かれて「もらっていません」と答えたら、大変なことになりました。知事表彰を受けずに藍綬褒章というのは異例のことらしいんです。翌年慌てるように知事表彰を受けました。

宗派内でも、要職を歴任

―宗議会議員や宗務総長といった、重要ポストも経験されてきたそうですね。

真宗大谷派の宗議会議員になったのは、小千谷の浄照寺の小林文雄さんの後任としてでした。2期目は全然選挙活動をしなかったら落選したもので、小林さんに叱られた。怒りを沈めてもらうために、その次は運動をし、当選しました。その後、木越樹内局の時に入局し、同和問題推進本部長をつとめました。内局というのは、国政で言うところの内閣のようなもの。5人の参務がそれぞれ宗派全体に関わる仕事を担っています。

2005年に全日本仏教会の理事長になるように命じられました。大谷派が当番教団になった時です。当時は56宗派106団体だったかな。同時に文部省直轄の宗教連盟の理事にもなりました。2008年5月に今度は宗議会の議長になれと言われて、困ったなーと思いました。それで引き受けたのに、10月には議長を辞めて宗務総長になるように言われました。私の意思は無視されていましたねえ。案の定「5ヶ月で辞めるとは、議会軽視も甚だしい」という声が上がりました。

話は変わりますが、大谷大学を卒業した翌年から奥越真宗学院の講師もやりました。事務も兼任で。1962年に学院がなくなるまでやっていました。

宗務総長時代で忘れられないのが、2011年の東日本大震災。宗祖親鸞聖人の750回目の御遠忌が厳修される大きな節目の年のことでした。

(続きます)

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